熊本市南区城南町にある浄喜寺は浄土真宗本願寺派の寺院です。浄土真宗は親鸞聖人が日本で開かれた仏教です。

   欲や怒りの煩悩を断滅するために無我を実践するのが仏教です。しかし、私たちのほとんどは煩悩をなくすための無我を実践できません。そのような人間のために、本願念仏(南無阿弥陀仏)のはたらきにより、私たちの煩悩の生活がそのまま無我の実践のためのプロセス、修行となることを、親鸞聖人は自ら体験し、教えられました。

 無我とは、「私」がないということではなく、自分と他人、善と悪、好き嫌いなどと、分ける対立的な見方を離れて、あらゆるものをありのまま(一如)に見ることができるありかたです。自分や他人の煩悩を善悪を離れて、ただ見ていくことで、煩悩に巻き込まれることなく、煩悩に支配されることもなく、煩悩の底にある自我のとらわれに気づくことができます。ただ気づいていくだけで、その他の修行はいりません。

  

 


 浄土真宗の修行は、特別なことをするのではなく、生活の時々に自分の心を見つめ、その時々の煩悩に気づいていくだけです。

 私たちは社会生活の中で、自分の外ばかり見て、様々な比較のなかで生きています。自分の心に気づくことはめったにありません。

 私たちの目を内に向けるのが本願念仏(南無阿弥陀仏)です。念仏の智慧によって私たちの心の有様が見えるのです。


煩悩

身を煩わし、心を悩ますもので、人間だけのものです。他の動物は苦痛は感じますが、悩みは持ちません。私たちは思い通りにいかないと悩むのです。表面の煩悩の底に自我という根本的な煩悩があります。

自我

 自分は常にあり、この世界の中心であるという無意識の思いです。考えや行いはすべて自我の思いに支配されています。自我は妄想であるので、私たちは根本的に不安定です。それゆえ人間は文化を生み出したのです。

智慧

一般的な知恵・知識は相対的で対象化してものごとをとらえます。有無、善悪、損得など比較が生まれるのは、無意識の自我を基にしているからです。それに対して仏教の智慧は無我を基にしていて、相対を超えて一体的(一如)なものです。



念仏

念仏は私たちが口で「南無阿弥陀仏」ということですが、親鸞聖人は「念仏は大行である」と教えられています。私たちが念仏するのですが、念仏は私たちを超えた宇宙そのもののはたらきです。例えると、空気は地球に満ち満ちていますが、私たちが呼吸するとき鼻から入り、身体中をめぐり、はなから出ていきます。そのように、念仏の大行は宇宙に満ち、同時に私の体と心に満ちているのです。私が呼吸するときに空気に気づくように、念仏するときに人間を超えたはたらきに気づくのです。気づいていなくても、そのはたらきそのものなのです。

 

信心

 他力の信心は阿弥陀仏や他の何かを信じるということではありません。本来の自己を知り、主体を回復することです。私たちが自己と思っているものは、社会の中、他の人たちとの関係の中で生み出されたもので、部分としての自己であり、仮想てきなものです。しかし、それは共同的なものですから、確かなものと感じられるのです。本来の自己は世界と一体であり、そのまま全体です。信心はその本来の自己に目覚めるとともに、仮想的な部分の自己の構造を理解すること、つまり凡夫の現実に気づくことです。